京都での決意。「一番稼げる左官屋になってやる!」 - 川村工業丨直用職人が全国出張する左官・土間工事会社

京都での決意。「一番稼げる左官屋になってやる!」

株式会社川村工業
代表取締役 川村篤
金ゴテから最新機械まで操る川村工業の現社長。
見た目とはウラハラ?に、年齢の若い職人からも慕われるキャラクター!
モノリスホールディングス株式会社
代表取締役 
柴崎幸子
グループ全体の会計業務、新規事業立ち上げを担う。
多数の建設会社の会計に携わってきた経験からくる視点が鋭く面白い!

 

川村さん…、
今回は恐らく多くの人が気になっているであろう川村さんの歴史を掘り下げていきたいです。
川村工業がどういう歩みで今に至っているのか、ただただ私が知りたいだけなんですけど(笑)
私が最も印象に残っているのは、京都に行って気付いたという「自分は伝統的左官屋には向かない」ということ。伝統的な左官屋さんには、すでに優秀な人材が沢山いる。
だったら別のジャンルで「一番稼げる左官屋」になってやる!と。
その発想が川村さんらしいですよね…。
現社長の篤さんと、お兄さんの剛さん、ご兄弟で「川村工業」を経営されてきたと伺いました。
そうだね。
会社を継いでからしばらくは兄と二人代表で役割分担しながらやってきました。

京都に行ったのは兄で、発想の転換だったと。

25〜26歳くらいの時に、ふと京都の左官学校に見学しに行ったんですよ。どんなものなのか見てくるって。

自分たちは「見て覚える」が当たり前で、3年間はコテを持たせてもらえない、ひたすら材料を練るだけだった。

だから専門学校って何を教えてるんだろうかと知りたかったようです。

その視察で京都に行って気が付いた。

川村工業がいま創業半世紀くらいだけど、左官屋さんって江戸時代創業とか、100年の歴史がある会社っていっぱいあるのね。
そうした古き良き伝統の左官屋さんは、地方にあったり、神社仏閣を担当していたり、既得権益で守られている。


左官屋の一番になりたいと思って京都に行ったはずが、「正面から行ってもダメ。この歴史をひっくり返すのは一生かかっても無理だ」と悟ったと。それくらい左官屋の上からの圧力ってすごいんですよ。

といっても、
左官屋=壁を塗る
コテを使う仕事
なのだけれど、元々仕事が広範囲すぎるんです。

有名な左官職人さんって何人かいるけれど、その人達はもうアーティストの領域。

伝統があって、アーティストがいて、それ以外の人達は一般の町場とか野丁場とか。

個人をターゲットにしている3~6人規模の左官屋さんは多くて、日本左官連合会でも10人規模くらいまでの左官屋さんが多いんじゃないかな?

市場規模を考えても、町場の領域に参入するつもりはなかった。もっと大きな規模で会社をやりたいと思っていたから。

じゃあ勝てる分野は何なのかと。

川村工業は「稼げる左官屋」になっていこうと、その当時に決めたんだ。

川村兄弟は負けん気が強いから、収入で一番になってやるって。
何でも一番がいいのね。だから車のナンバーも1なんですよ。(笑)
小学生の時からずっと稼ぐことばかり考えてきた。子供の頃はお小遣いなんてもらえなかったから、おやつを買うのにどうやってお金を稼ぐか。

無ければ稼げばいいという発想。

先に働くことを始めた兄は、中学生になった頃にはもう学校の先生より収入があったみたいですよ。

「学校を休んでバイトすれば良い」って、しょっちゅう左官屋に手伝いに行っていたから。

父も叔父も左官屋をしていたので、アルバイトに行って。学校の出席日数と調整しながら上手くやっていたみたいです(笑)

幼い頃から商魂がたくましかった、ということですね。

授業中、生涯年収を自分で計算する高校2年生

その発想が川村さんらしいですよね…。
そのまま成長した川村さん兄弟はどんな学生だったのでしょうか…
教科書は一度たりとも開いたことはありませんでしたね…(苦笑)
高校2年生の時だったかな?授業中はアナザースカイです。
生涯年収を自分で計算していました。

一生のうちの働ける時間で、一体自分はどれだけ稼げるんだろうって。

年収1,000万として、大学卒業してから60歳までの間で稼げる金額から、生活にかかる出費を差し引いたらどうなるのか。計算してみたらマイナスだったのね。

先生に質問してみてもノーコメント。

だったら高校卒業したらすぐにガッツリ働こうと。早く社会に出て稼いだほうがいいやって。

その頃って日経平均株価が絶好調でしたもんね~。
高校卒業する前に、お金を貯めて実家を出たんだけど、2年間は真面目に働いて。
そしたら成人式の前には現場を持たせてもらえて、親方になった。
若い衆1人しかいなかったけど。
20歳で親方ですか!
でも最初は人を雇うことに慣れてなくてね。我々の現場にはみんな来たがらなかった。
「付いていけません」って。
朝から晩までこき使って仕事させられるから。(笑)

スーーーーーパーーーーーブラックよ!その代わり稼げるけど。
請け負いだから。もちろん自分も一緒に作業してたんだけどね。

若い時は「トレーニングしてお金稼げるな~」くらいに思ってたから。
筋トレしているんだ、という感覚。

稼げてくると「もっと稼ぐにはどうしたらいいか」を研究して。効率よく稼ぐ方法=ラクに稼げる方法に、自分の脳がシフトチェンジしていった。
そういう「考え方」と「カラダの動き」とを同時にやると、仕事が早くなる。

しかし兄が結婚して間もなく、肩を壊してしまって。

根性・気合の精神論で仕事をやってきたのが、物を担げなくなった。寝るのもしんどいって言っていたくらい、肩が岩のようだったんだ。

シップを貼ってもマッサージしても効果なし。

当時は自分の現場を持っていて、3人くらいのチームで動いていたけれど、打ち合わせに行ったり、左手だけの片手でできるようなことをやっていて。

「あまり調子に乗るとカラダは壊れるんだな」ということを学んだ時です。(笑)

スポーツでいう、ピッチャーの球数制限ってあるでしょう?

若いうちでもバンバン投げていると、肩が上がらなくなってしまう。それと一緒。

痛い思いをしないと、人の気持ちは分からないと言うけれど、我々も痛い思いをして初めて「気合とか、歯を食いしばって(仕事を)やるもんじゃないんだ」と分かった。

色々な病院に通っていて、当時は社会保険ではなかったから、医療費は自己負担。
朝は現場に居ても、途中で通院のために抜けることになる。

できることが限られるから、生産性は悪くなる。

稼げる仕事のはずが、カラダを酷使してケガだとか壊したりするとプラマイゼロ。何ならマイナスで元も子もない。

上手にカラダと向き合って仕事した方が良いと身を持って学んだんですね。

その頃って、左官の仕事でどれくらい塗っていたのですか?
尋常じゃないくらい。
最初の1年目は、年間の休みが4日間だけですって。
え・・・(絶句)
早くやった分、早く覚える。
他の人が早くても3年、遅い人で5年掛かるものを、2年で習得した。
よくも悪くも、今と違って残業時間の制限がなかったから。
当時はバブルの名残があって、その頃のテレビコマーシャル、知ってる?
リゲインって栄養ドリンクあるでしょ?「♪24時間戦えますか♪」っていうCMやってたんだよ。(笑)それがウリだった。そういう会社。

でも、自分たちの時代には建設業は3Kと言われて、建設業に就く人なんて誰もいなかった。
他人から馬鹿にされるくらいよ。

給料が高くても、誰もやりたがらなかった。

自分たちと同じ時代、そうだなぁ、今40代後半~50代の左官屋さんって、左官業界では一番少ない世代。働き手が増えてきたのは、我々が一人前になってきた頃くらいからかなぁ。

覚えているのは、当時NTTがダントツ人気の企業。
就職先としてゼネコンはありでも、専門工事は全く人気がなかった。

3億6千万円の借金と一緒に訪れた事業承継

えっと…。川村さんっていつまで一人親方だったんですか?
兄が30歳前後の頃までです。
その頃に3億6千万円の借金と一緒に、会社を引き継ぎました。
え・・・・・・(絶句2)
自分らは仕事では結構人気があって、引き合いがあったから、借金を返すのに沢山仕事すれば良いと思って、外注さんをどんどん増やして。多い時で1カ月で500万円くらい返済していたんですね。

そうして借金が1億9千万くらいまで返済できた頃、リーマンショックが訪れた。

それまで順調にいっていて、物とか設備とか増やしていたけれど、トラックをとかを売って運営資金にしたり。

アネハ事件、リーマンショック、一番嫌な時期。

でも金融円滑化法とか、モラトリアム法案が施工されて、借金返済は延長できた。

それまで短期返済で借金に追われている生活で、バンバン人雇ってバンバン現場を回していたのが、リーマンショックで職人は少なくなって。


それまで毎日200人くらいが動いていたから感覚がマヒしていたのかもしれないけど、人が減って30人くらいになったらすごく気がラクになって。

「あれ…?こんなに平和なんだ」って、我に返った瞬間だったんだ。

「みんなの仕事を探さなきゃ」と走り回っていたのが、無理をしなくて済むようになった。

次々仕事取っていたら、どんどん頼られるようになってさ、でもその分苦情も来るようになってしまって、ずっと嫌だったのね。

でも借金があるから仕方がなかった。

リーマンショックがきて、アクセル踏み込みっぱなしだった生活を緩めることができて、よそ見をする余裕が生まれた。
それまでは、いつ事故に遭ってもおかしくないような、手に汗握る運転をしていたのと一緒。

当時を思い返すとねぇ…、地の底から這いあがってきたって感じだね(笑)

左官屋の値下げ競争からの脱却

社会情勢を遡ると、バブルが弾けて、マンションブームが来て、少し景気が上向いていた。
そこへリーマンショックでまた落ち込んでしまって、せっかく育てていた人材も、もう建設業界を去ってしまった人もいる。

その後に東日本大震災があって、東北復興とオリンピックが決まったことで建設業の景気はまた上り坂になった。


当時は値下げ競争で、生きるために安い仕事もしていたんだけど、3.11で「あれ…仕事がたくさん増えてきたぞ、おかしいな…」「これは後々高くなるのでは?」とピンときて、仕事を選ぶようにした。


アネハ事件などで止まっていた現場が一気に動き出して。でも職人の数は減少していたから「そのうち人手が足らなくなるだろう」と思ったんだ。

良い仕事(儲かる仕事)を選ぶようになると、利益はどんどん出るでしょ。

以前は大きな現場を手掛けていたから、その時の付き合いであちこちから仕事は来ていて、周りの競合他社が業績が悪い時期に、安い仕事を断れる会社になっていた。


だから業績の回復も早かった。


まぁ最初は経営ってわからなかったけど、お世話になった保険営業マンの人がいてね。

どんなに苦しくても保険料とか、積み立てとかは続けていたんだ。

そしたら知らない間に会社に体力が付いていて、銀行からの評価も上がっていた。

個人も法人も一緒なんだけれど、見えないところでお金を貯めておくのが大事。
すぐに使えないじゃない?銀行、ATMに行っても下ろせないから。
でも積み立てているお金はしっかり資産表に出てきますから。

私は過去に建設会社の会計処理を何社もやってきていて、会社の通帳の残高が何十万円しかないという企業の状況も見てきたし。

それなのに川村工業には潤沢な資産があって、すごいなって思ってたの。

その時社員旅行でスペインに行ったりして。
スペインだって聞いて驚きました。
社員旅行でヨーロッパに行くなんて、あまり聞いたことがなかったので。
ずっと行きたいって思ってたんです。
建設やるなら一度はスペインを見ておこうと。
リーマンショックとか苦しい思いしてきて、残った人達で本当に良くなっていきたいという気持ちで。

サクラダ・ファミリアって1日にものすごい数の観光客が来るの、知ってる?

建設現場よ?そこに世界中から勝手に人が集まってきて、他にも同じような世界遺産をたくさん持っている国。

当時スペインって景気が悪いと言われてきたけれど、そんなこと無いなって。この国には莫大なお金が入ってきてるって。やっぱり現場を見てはじめて分かる。

早朝に兄が一人で入口の柵にへばりついて、まじまじと眺めていたのを思い出します。

左官屋だけじゃない、建設業界全体で人が入ってこない理由

話を戻すと、東北の復興支援の時に人が足らなくなるだろうなと察知して、川村工業はとにかく人を集めようと求人広告をいたるところに掲載しました。
その時に入ってきたのが、今うちの最前線で活躍している30代前半の若い子たち、もうしっかり成長している。

昔だったらねぇ〜、そういう人が後輩を連れてきてまた若い子が増えていくという循環だったけれど、今はそれが難しい時代。


建設業はしんどい部分もあるし。
じゃあ何を売りにしたら良いのかって。


若い世代の子たちは考え方がシフトしてるから。休日とか、副業とか。


一方で建設業界は「社員」でないと、もう現場に入れない。

昔のようにポッとアルバイトなんて絶対できない。
まずは健康診断を受けて、キャリアアップシステムに登録して、健康保険も年金も、労災保険にも入ってる証明書を取得して。


「ちょっと来てみなよ!」なんて呼べないわけよ。
とりあえず試しに日給いくら位でやってみなよ!って気軽に入れない業界になっちゃったんですよね。


これだけの書類を事前に準備して、手続きをする企業側からしてみれば大きな「投資」ですよね。どこの企業も、誰か一日アルバイトに来るからといって、そこまでの投資はできないでしょう。

だから昔のトレンディドラマのように、失恋したら次の日には会社を辞めて、即建設現場で働いてるとかね。千回目のなんとかというドラマでそんなシーンがありましたけど。
今の時代ではそれは無理です!(笑)
そういう採用だとか業界の動きだとか、様々な視点で川村工業は「グローバル化」「機械化」にシフトしていくわけなのですね。
うんうん、でもね、そういう川村工業の面白い切り口はいつも後付けなの。
全てがアドリブから始まる。

人って、何か今のこの結果があるのにはまず原因があるだろうって考えがちでしょ?
この方々はね、それが無いの!

あ~、いいなぁって思ったら買っちゃうの。後から「やべ!買っちまったよ…」って理由をつけていくわけね。(笑)行動が一般の人と逆なのよ。

そのお人柄は今までのインタビューで少し(だいぶ?)垣間見れたかもしれません。
次回、金ゴテの左官工事会社だったところから、どうやって最新機器まで操る土間工事会社に進化していったのか、詳しくお聞きしたいと思います!!

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